釣れなかった失敗談から釣りが巧くなるための極意を学んだお話


魚釣りはいつもいつも釣れると楽しい。そう思って絶好調で悦に入っているとある日途端に釣れなくなる。そうすればこんどは逆に非常に悔しくなってくる。

そんな繰り返しだから釣れた時はまた楽しさが以前よりも倍増する。
釣れたら楽しくて、釣れなければ悔しい。この感情から釣り人は逃れることができないんですがそれでもやはり次には釣りたいと思う。

長年釣りを行なっていてもまあこんな繰り返しが延々と続いているんですが、私なんぞは、釣れた感動も釣れなかった失敗談ももうどれだけ積み重なっていることやら。

釣れなかった失敗談も山ほどあるんですが、中でも一番想い出深い事といえば、本格的(?)にチヌ釣りを始める大きなきっかけとなった20歳中ば。近所のある堤防へ一応チヌを狙って一人で出かけた時の事。

秋のシーズン真っ只中の堤防はもう釣り人で溢れ返っている。
釣り座の確保もままならないような状態の中、周辺の釣り人がポツリ、ポツリとチヌを釣り上げていた。

私なんぞはチヌ釣りの方法を近所の釣具屋で教えて貰ったばかり、そうしてタックルも人任せに買ったばかりで、当然ながらそれまでにチヌを釣ったこともなかったし(小さい頃に誰でも釣れる小チヌを沢山釣っていた経験のみ)、とても仲間に入れて貰えない。
当然ながら魚なんぞは釣れるはずもなく、最後にはトボトボと帰らざるを得なかった。

そんな釣りの超初心者でも少しは悔しかったんだろう。また日を改めて出かけてゆく。
二回目、三回目、四回目、やはり周りの人はポツポツと釣り上げているのに、懲りずに出かけている私には釣れない。
釣りたい、といった情熱も人一倍持っているし、回数を重ねる毎にそれはどんどん膨らんでくるにも関わらずー。

もうこのくらいの回数になればどんなことがあっても意地でも釣りたくなってしまうんですね、それも周りのほとんどの人が釣り上げているのを見ているだけにね。

五回目、やはり釣れない。
六回目、見よう見真似で少し釣り方を覚えようやく一発の手ごたえ。

こりゃあ興奮の極みでどうして釣り上げたのかは判らないような時間が過ぎた後に、なんと30p程度だったと記憶しているが真っ黒な、とてもチヌには似つかない魚がタモに収まっていた。

近くで釣っていたおっさん、「ええグレやなあ。」羨ましそうな顔で声を掛けてくる。
そのおっさんは何故か嬉しそうだったが、私は全く嬉しくない。
チヌでなかった失望感は青年(?)の心臓にナイフが刺さったような気持ちだったのにー。

気を取り直して再度チヌを狙うものの、やはりこの日はダメージが大き過ぎたのか何故かそれ以後あまり釣りをする気持ちにはなれない。
やはりほとんどの人がチヌを釣り上げ、自分だけが蚊帳の外へ放り出されているような憂鬱な気分を今回で六回も味わってしまったから当然といえば当然だった。

−で以後は、もう釣る気にもならないし、もう帰る気にもならないままに、帰るまでの二時間あまりの時間をいつも沢山釣っている人の近くへ移動し、釣りを眺めていた。
次回こそ釣ってやろう、といった魂胆でもあったようである。

まずはもう覚えてしまった仕掛けやその投入方法、さらにはパラパラと撒くマキエのタイミング、狙うポイントや仕掛けの流し方、今にして思えばその人の一挙手一投足のそのすべてをとにかく食い入るように見ていた事を想い出す。
−と、あまりにも真剣になって見ていた私にその人は声を掛けてくれた。
「チヌはこうやって釣るんじゃ。ええかァー、見よれょ〜!マキエとサシエを合わせるタイミング、釣れるポイントは何処か、ウキ下は、、、、」
などなどと懇切丁寧に見ず知らずの私に語りながらも、一匹、また一匹とまるで自在に釣ってゆく。
呆気に取られた状態の私はもうそれまでの自分の不甲斐なさに一層の嫌悪感を増幅させていた。

−が、その反面“何とか自分でもできる!”とそれまでの失望感が一気に消えそうな感情さえ抱き初めていたのだ。となれば、明日の仕事なんぞは当然パス。翌日は当然ながら有給届けを出し、早々に堤防へ走り出した。

それまで職場を休んだことなどなかったし、休んで釣りに出かけることすら罪悪感を持っていた私だったが、この際もうそんな事には構っていられないほどの気持ちだった。

釣り始めると昨日教えられたとおりに淡々と冷静に釣りを進めてゆく。
それまでの手探りで訳のわからない釣りとはまるで大違いだった。

“こうやれば釣れる。”、そんな確信はやがて時間の経過と共に現実のものとなった。
取り込み方もタモ入れも昨日しっかりと見せて貰った。
同じような手順で、同じような方法で、同じような動作で、二匹、三匹、とあれほど憧れていたチヌがすんなりと自分のものになってゆく。

とうとう帰るまでには6匹のチヌと出会ってしまった。
有頂天、そんな言葉を実感できるような豊かな時間をしばし味わっていた。

あれほど難しいチヌ釣りが、実は釣った途端にあれほど簡単だった、というのが釣り人の傲慢さかもしれないが、とにかくそれ以来現在でも、私は常に釣った釣り人の教えを未だに聞き続け、その繰り返しで釣りを楽しんでいるのだが、その反面、自分で釣った経験や体験をやはりあの時のおっさんのように伝え教えてゆかなければならない立場にいつしかなってしまった。

概して釣り人といった人種は最初の覚え始めは自分勝手が多く、我がままで、出来もしない事や経験もしてない事に変な負けず嫌いを持ってしまい(失礼!当時の私みたいな人間は今は少ないかも?)、一人よがりになってしまう。一人で何でも出来ると思ったら大間違いで、まあ釣りは人生の生き方をも教えてくれる遊び、といったら言い過ぎでしょうかねえ?

−中略−

自分以外の釣り人は“皆師”となります。釣りは上手下手の判断基準の存在を否定はできませんが、釣り場で魚を釣った釣り人こそ名人なんです。

釣った人を尊敬する気持ちを常に忘れないようにしたいものですし、釣った人に教えを請うのも非常に効果的な方法ですし、そこで何故釣れたのかが釣った本人よりも明確にきちんと分析できるようになれば、もしかすればその人以上に上手な釣り人になれる可能性が高いですね。

今でも私は釣った人の観察は絶対に怠りませんし、時には教えを請う、といった事を実践しています。
まあ一人よがりにならないことと、釣った人を素直に上手だと認め尊敬する事からどんどん釣りは上達してゆくんだろうと思いますが、、、、。


釣りが巧くなるためには?
−というお話でしたが、わかっていただけたでしょうかねえ?