2001年5月22日 「闘魂エッセイ 第11回」


<釣りは釣り人を、非常に謙虚にさせてくれる遊びです。>


数年前から流行っている、ジコチュウ、という言葉。
時代が豊かになるにつれて、自己中心的なものの見方や考え方をする人が増えてきました。

オウム真理教に代表されるような狂った集団は論外としても、豊かになればなるほどに、もっと考え方もおおらかになって然るべきなのに、いったい何が不満なのか、どうやら人間は満たされれば満たされるほど自分という存在感を、より示したがる動物のようです。

大多数が経済的にも貧しい世代だった時代には、謙虚や謙譲が美徳であったはずなのですが、物が溢れ、生活が豊かになり、食べるために必死で働かなくてもよいような時代になるにつれ、人間の価値観は当然ながら次第に変化してきました。

もしかして、生活の豊かさや物などは、結局は一時的に人間を満たすためだけのものに過ぎなくて、本来の人間にとっての、本当の豊かさにはならなかったのでしょう。

それにいちはやく気がついた人の中から、自分自身への尊厳や存在感への回帰を求めるような現象が起り始め、ある意味での自己中心的な考えが蔓延し始めたのかもしれません。

自己中心的な考えは、すべての人間誰しもが潜在的に持っている欲望なのでしょうが、こと魚釣りの世界においては、何故かまったく通用しないのです。

魚釣りは自然相手のゲームです。
途方もなく巨大で捉えどころのない自然が相手だ、となれば一釣り人の一個人的な、自己中心的な考え方、といったものなどは通用するはずもありません。

さらには自己中心的な考えは、強い自己顕示欲と隣合わせが常なのですからより始末が悪くなります。

魚釣りの主役は決して釣り人なんかじゃあなく、当たり前の事ですが、魚や巨大な自然が主役であり、もう一度繰り返すようですが、魚に対して振りかざそうとしている釣り人特有の強い自己顕示欲などは、魚に対してはまったく通用するはずもないのです。

自分の存在感を示すより前に、まずは魚の存在感やその習性、さらには自分のおかれた自然の状況を理解しようとしなければ、最終的には魚に嫌われるのが常なのです。

実は、釣りという遊びは、時には釣り人を非常に謙虚にさせてくれる遊びでもあったのです。


【このページは第11回です】