2001年5月25日 「闘魂エッセイ 第14回」


<釣りは楽しさばかりか、我慢と辛抱を教えてくれる遊びです。>


コツコツと釣り具を買い漁り、未だ見ぬ魚の事を想いながら黙々と釣行の準備をする、釣り人にとってのいわば釣行前の至福の時間です。

ところが念願の釣り場へようやくの事出かけてから、ふと気がつけば、竿にはある一定期間の保証があるにも関わらず、その竿を使って遊ぶ釣りというゲームには、絶対確実だ、などといった保証はまったくありません。

いやそればかりか、釣り場の天候が安定するかどうかといった保証もなく、ましてや磯釣りなどは潮の動きも変幻自在でまったく保証なし、ときたら、いったい何が面白くて世の釣り人は釣りに出かけているんでしょう?

釣れるのか釣れないのか、そんなことより何よりも、あの大きな海でいったい魚が何処に泳いでいるのかもわからないままに、たった一個の針に付けたエサだけで魚を釣ろうとしているなんて、まるで暴挙だ、気違い沙汰だ、などと釣りにまったく興味のない人は、磯釣り師の事を、多分そう思っているんでしょうねえ?

さらには高価で種類の多い道具類、この竿は一本10万円、このリールは一個が8万円、などとそれで得意になどなっていた日には、もう磯釣り師のする事といったら、 “この近代社会の落ちこぼれの原始人(?)” みたいな眼で見られる事も多いようで、釣り人にとってはもう踏んだり蹴ったり、のようです。

釣り人は釣り人で、どうせ釣りの事をわからない人間は、我々とは残念ながら棲む世界がまったく違うんだ、そんな連中にくどくどと説明している暇があったら仕掛けの一組でも作ったほうがマシだ、などなどと釣りに批判的な “釣りオンチ” と感じている人に対して、釣りのロマンを語ることを最初から諦めてしまいます。

それだけならいざ知らず、挙げ句の果てには、我が道をゆくのが何が悪い、などと開き直ったりしながらも、心の片隅では少し世間に認められない悔しさで、何故かしぜんと少しは肩身の狭い想いをしてしまいます。

どうやらすでに釣りに出かける前から、釣り人にとっての我慢は始まっているようです。

釣りに出かければ出かけたで、釣れない時間は長く、期待はいつも帰るころになれば失望に変わり、努力した甲斐も報われず、残るのは徒労だけ、なんて事になる場合も多く、いったい何が面白くて懲りもせずに、何度も何度も釣り場へ出かけてゆくのでしょう?

“それ見た事か!” 、などと他人に言われる権利はないものの、これも我慢と辛抱の釣り人にとっては、次に飛躍するための、次の釣りでより大きな楽しみを手に入れるための、いわば試練のひとつなのですが、どうやら釣りの本質は、我慢と辛抱を徹底的に教えてくれる遊びのようでもあります。

けれどもですねえ、我慢と辛抱の後にはそれを経験した事のない人間には味わうことのできないほどの大きな楽しみが待っている、という事を、釣り人だけが心底知っている、という事実。

釣りの楽しさは、実はこれなんですねえ。

ちょうど暑くて暑くてたまらない時に、我慢に我慢を重ねた後で飲む冷たいビール、この格別な味に魅せられれば、誰でもイチコロ、文句無しに虜になってしまう、とは思うのですが、、。


【このページは第14回です】