2001年5月27日 「闘魂エッセイ 第16回」


<釣り場のゴミ問題は、モグラ叩きです。 (その2)>


ところである初夏に、ある取材のため、大分県の鶴見崎へ出かけた時の事です。

磯上がりした途端に、まずはゴミの散乱が眼に付きました。
さらに運の悪い事には、オキアミがタイドプールで腐敗して、それはそれは恐ろしいほどの悪臭となって、辺り一面に漂っていたのです。

これじゃあとても釣りを楽しむどころではありません。
よくもまあこんな磯で、釣りを楽しんでいるものだなあ、と変に感心した事を覚えています。

いくら釣り場で心が踊っても、その時の私にとっては、まずは磯の清掃をしなければ釣りは始まらなかったのです。

一時間ほどの間、腹の立つ思いで懸命になって、また汗だくになって、動いたのを覚えていますが、まあ夏の磯が荒れ放題なのは、その後に尾長グレを追いかけるようになって少しは理解できましたがー。(冬場のように海も荒れず、風も穏やかであれば、釣り人の捨てたゴミがどんどん溜まってゆくのは当然なのです。)

ーで、行動、というその始まりは、どうやら、まずは自分自身の利益になるようなところから出発するようです。

自分のためだけにしかならない、といったような行動が、一般的に言われている “ジコチュウ” の根源で、やはり人間そのものの本質は、実は極めて自分勝手な生き物だったのかもしれませんがー。

ある意味 “ジコチュウだ!” と常々思っている私は、そんな事を少しは理解していますので、今まで他人に対して 「ゴミは捨てたらアカン。」 などと言った事もありませんし、これからも不謹慎なようですが、言うつもりもまったくありません。

いやむしろ、「ゴミを捨てるな!」 などと野暮(?)な正義感を他人に押し付けようとする人には、何故か嫌悪感を抱いてしまいます。
他人に押し付けるより先に、自分がまずは行動で示せば良い事なのに、なんでわざわざ他人に説教する必要があるのでしょう?

まあまあそういったことはともかくも、けれども何気なく、そうして悪びれずに捨てたカンコーヒーやペットポトルの散乱は、磯場で自分がこれから釣ろうとしている魚の棲み家にも勝手に侵入してしまいます。

他の釣り人が釣れなくても自分だけは釣りたい、と思っている釣り人にとっても、いや応無しにその影響を与え続ける、という事実、少しはわかっていただけるでしょうか?

自分で釣れなくしている事に気が付かない人にとっては、これだけ釣果の上がらなくなった現在こそ、もうそろそろ自然に対しての気使いを、今まで以上に、もうちょっとだけでも、考え直さないといけないような時期にきているんじゃあないか、と感じているのは、いったい私だけなのでしょうか?

もっともっと釣れなくなり、釣り人がウンと減れば、ゴミ問題のほんの僅かの解決には幾分繋がるかもしれない、とも思うのですが、それでは釣り社会全体の賑わいも消え失せ、釣り人同志でお互いの楽しみを共有する、という釣りから得られていた以外の、釣りの間接的な楽しさも、確実に減少してしまいます。

もしかして、釣り連盟という連綿と続いてきた大きな素晴らしい組織も、その存続の意義を根本から問い直されてしまう、なんてことになってしまうかもしれません。
まあ私はちょくちょく極論を述べてしまいますが、、、。

けれども残念ながら、この問題に対しては、相変わらずモグラ叩きのような状態が、まだまだこれからも、ずうーと続いてゆくんでしょうネ。


【このページは第16回です】