2001年6月04日 「闘魂エッセイ 第24回」


<ガンバレ、磯釣り師(その2)。>


そんな釣りからの体験ばかりか、帰ってくれば帰って来たで、 開口一番、 “こんなはずじゃあなかった!”、 などといった釣り人特有の家族に気使ったセリフも、いつしか家族に理解されなくなっているのを、当の本人だけが知らない、という悲しい現実。

いつしか家庭内では、もしかすれば自分の思惑とはうらはらに、悲劇のヒロイン、いやヒーロー、もっと悪い言葉で言えば、 “負け犬”、 にされてしまっている、かもしれないのです。

それでもたまに釣れた魚を持ち帰り、あまりの嬉しさに酔いしれて、少しの自慢でもしようものなら、
「おとうさん、魚は買った方が安いん違う?」、といった速射砲。

反論もできず、思わず “グサリ” と刺されたような衝撃が、いきなり襲ってくるのです。
この一言でようやく家庭内では、自分の逃げ場所がないのを悟ります。

ああ!釣り人の逃げ場所は、やはり海しか残っていないのでしょうか?

それでも気を取り直し、“今度こそは” 、の繰り返しで出かけていっても、出かける時のギラギラとした眼の輝きは、もう帰る頃にはその輝きのカケラすら奪い取ってしまう遊び。

けれど、
誰だって、負ける事は好きではありません。
誰だって、悔しい想いなんぞしたくはありません。
誰だって、好んで闘いをしよう、などとは思っていないでしょう。

けれどもひとたび釣り場へ出かけたなら、とてもそんな悠長(?)な事は言ってられません。
ーがしかし、けれども、釣りを続けてゆく限り、またまた “忍耐” 、という二文字が嫌応なしに、背中合わせにくっついてくるのです。

何度挫折しようが、何度期待が消えようが、何度辛酸を舐めらされようが、何度でも出かけていって、そうして “闘い” を挑んでゆく。

いったい釣りの持つ魔力って何なんでしょう?

もしかして釣り人だけが、心底闘ったものこそが味わう喜び、といったものを本能的に感じているんでしょうか?

小学校の徒競走のルールのように、何の目標もなく、何の闘いもない、そうして何の見返り(?)もない世界では、釣り人にとっての “心地よい刺激”(?) 、といったものは、まったく何も感じ取れないのかもしれませんねえ。

頑張れば頑張ったものだけにご褒美が与えられる、というのは、自然からの素直な教えだという事を、一番良く知っているのは、決して教育者なんかじゃあなく、実は釣り人自身なのかもしれないですねえ。

そのために釣り人はまた、明日からの未だ味わえない事や、未だいただいた事のないようなご褒美を目指し、そうして釣り場に向かって突進し続けてゆくのでしょうか?

そんな磯釣り師と出逢うたびに、 “へこたれず、ガンバレ!、磯釣り師。”
何故か思わずそう叫びたくなりそうです。

ところで、私ももちろん同類の磯釣り師なのですが、、、???

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